生命「感」が宿るモーションデザイン - 『テオ・ヤンセン展』

2009/3/8 | カテゴリ: アート, レビュー, 日記


日比谷パティオで開催されている『テオ・ヤンセン展 - 新しい命の形 - 』を観てきました。2008年と2009年は、「日本オランダ年」ということでフェルメールの展示はじめ、色々とオランダ文化の紹介があるようです。逆にオランダでも日本のイベントがいくつか催されているらしく、どう評価されているのかちょい気になりますが、まぁそれはいいや。

モーションデザインにみる「生命」

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今回展示されたのはヤンセンの「ビーチアニマル」という作品群。このごちゃごちゃした骨組みみたいなのが、風力をエネルギーとして実にスムーズに自動歩行します。是非公式サイトで動画を観てみてください。すごく「生きて」います。


実際の展示もそうなんですが、一見してゴミみたいです。ムカデの足みたいな要素は見て取れるものの、およそ生命なんてものは感じない。あくまで個人的な感想ですが、プロダクトとしての美しさみたいなものもあんまりなくて、正直止まってる時は何の魅力もない。

しかし、それがひとたび動きはじめると、一気にその動きに魅了されます。一瞬にしてそこに生命が顕現し、「感情」すらうっすら感じるようになる。

その「歩くだけ」というとても単純な所作を最適化したモーションに圧倒的な生命「感」を宿るのは、やはり動物として最も根源的な動作だからでしょうか。

テオ・ヤンセンという齢70の子供

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ヤンセンについて明るいわけではないのであくまで勝手な想像ですが、きっとこの人、すごく子供みたいな人なんじゃないかと思います。というのも、自分が子供のころ色んな場面で課していた「自分ルール」的なものを設定の端々に感じるのです。それは例えば「横断歩道の白いとこ以外を踏んだら死亡」とか道ばたで石ケリしながら「他の石に当たったらそいつはもう二度と蹴れない」とかそういうわけわかんないヤツです。誰しも経験あると思いますが、子供ながら(あるいは子供らしく)結構シビアに捉えていたと思います。

ヤンセン的にもそういうルールがあるらしく、まず今回展示されているものの大半はすでに壊れているもので、それらは「死んで」いて「化石」であるそうです。別に修理すればまた動くはずですが、修理とかしない。だって死んでるから。自分ルール。そしてまさかの「化石」設定。

さらに「進化」の概念。時系列で並べることが出来る作品群をヤンセンは「進化である」としています。もちろん、モノに対して「進化」という言葉を使うことはままありますが、ヤンセン的には「この作品はあの作品の孫」とかそういう家系図的な設定があるっぽい。おーい、かわいいなヤンセンw

この作品を作り始めたきっかけも、「プラスチックのパイプをくにくに曲げたりして遊んでたら、楽しかったから1年間これをやることに決めた」的なかわいげエピソード(やや誇張あり)なんですが、そういう子供的な感性だからこそ、「動き」という最も表面的で直接的な視覚情報に対して、極めて素直にその「生命性」を見いだせたんじゃないか、と思うわけです。

「いのち」と「こころ」

当展示のサブタイトルにも「 - 新しい生命の形 - 」とあるんですが、会場に足を運んで思ったのは、ヤンセンやこの作品を愛する人はこの作品郡に宿る生命感を『生命』というより『いのち』として捉えてるんだなー、ということ。『生命』というとやや固く学術的な印象ですが、もっと身近で親しみのあるものとして捉えているようで、『いのち』という「こころ」や「体温」を前提とした表現の方がしっくりくるんじゃないかと思いました。

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特に印象的だったのは、インストラクターの方が作品を「この子」「あの子」と呼んでいること。まぁ家族連れが結構いたのもあるかも知れませんが、「ちょっと疲れちゃってるみたいですー…」とか作品に「こころ」的な何かを見いだしているようでした。これこそ、ヤンセンの描いた生命感が、強いインパクトを持つことの一番の証左であると思います。

こころのありかと大森荘蔵

子供のころ、「こころ」ってどこにあるの?なんてかわいい問いをした記憶がありますが、答えはもらえず「なんとなく胸の辺り」ってかんじで認識していました。まぁそれもアリです。なんか素敵ですし。でも本当は「こころ」なんてものは、言ってしまえば存在しません。

「こころ」は「見いだすもの」であり「与えるもの」です。これについての説明は東京大学で教鞭を執っていた大森荘蔵の著作『流れとよどみ』9章「ロボットが人間になるとき」がユーモアがあって判りやすい。僕は常々、「ほんとうに頭のいい人は難しいことをユーモアを持って平易な言葉で伝える人」と思っていますが、まさに大森氏はそういう人の代表格で憧れです。かっちょいい。

で、「ロボットが人間になるとき」という章には、「見た目も動作も完全に人間なロボット」が登場します。「見分けがつかない」という前提です。「悲しみ」も「喜び」も人間同様に表現するそのロボットには果たして「こころ」があるのか?という問いが投げかけられるわけですが、大森氏は「ある」とします。

心臓や肺のように「こころ」を取り出してみせることは出来ません。「人間にはこころがある」としているのはあくまで「他者ありき」であり、他者が当人に「こころがある」と断じ「悲しいだろうな」とか「嬉しいだろうな」と「決めつける」ことこそが「こころ」という存在である、ということです。つまり、「こころ」とは個人の中にあるものではなく、他者から「見いだされ」「与えられ」るものであり、人と人(あるいは人とモノ)の間にあるものなのです。

今一部で話題のネットアニメ『イヴの時間』も、同様のテーマですね。まさに上記の世界で何が起きるかを描いた作品で、まだ完結していませんがとても面白い。更新が楽しみです。


話しがそれましたが、ヤンセン氏の『ビーチアニマル』も「こころ」というものを他者に与えさせている、という点が、いかにその表現が的を得たものであるかを物語っていると思います。

デザインにそれを取り入れたい

僕は純粋な「デザイナー」さんではありませんが、デザインと企画、その監督を生業としています。その中でいつも思っているのが、「デザインはコミュニケーション手段であり、人と人の間の潤滑油になるべきもの」ということです。まぁ僕なんかのデザイン論を展開してもしょうがないんですが、とどのつまり「こころ」を感じさせればデザインは勝利する、というのはやっぱり一つの真実だな、と。

グラフィックやレイアウトから「ああ、こういう気持ち・想いなんだな」と見た人が「決めつけて」くれて、「こころ」を「与えて」くれるものづくりをしたい。特に僕は、高校で生物学、大学で生命哲学を専攻してきたということもあって、いつかヤンセンのような生命感を表現に取り入れたい、というかそれをしなければ僕がデザインする意味がない、と強く思っています。そういった意味でもとても有意義な展示でした。

まとめ

最後はなんか自分語りになってしまいましたし、勝手な想像で色々書いてますが、要は「ヤンセン展、オススメ」です。DVDも買っちゃった(会場では500円引き)。

4月12日までやっているようですので、お暇があれば是非。ちなみに、行くなら絶対土日です。というのもデモンストレーションは土日しかやってなく、動きが観れないと多分あんまり面白くない。まれに作品がテレビ出演等でお出かけする時もあるようなので、公式サイトで情報をチェックしてからお出かけすることをおすすめします。

その後ちょっと銀ブラした

ヤンセン展観た後ちょっと「銀座をブラブラ」した。といってもアップルストアを冷やかして、コーヒー飲んだだけなんだけど、やっぱ銀座は「高度成長期の日本」ていう香りがして好きだなー。

アップルストアでは、24インチモニタの新iMacでonopkoさんのサイト『WORLD ENDING』みてたらスタッフの人に話しかけられ「すごい素敵なサイトですね」ってやたら褒められた。確かに、デカいモニタでみるとより圧巻で、チラ見しただけの人をぐっと惹き付けるグラフィックの強さってすげぇなぁと感嘆。


で、喫茶店に入って家では繋がらなかったUQ WiMAXを試すも繋がらず…。でも雰囲気の良い喫茶店で和んだ。コーヒーも美味しかったし、名前忘れちゃったけどまた行こう。そんな日曜でした。


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